- 今月の特集 -
 
 
労働組合がようやく認められた1945年
 
 今年は第二次世界大戦が終結してから60年にあたる。60年と言えば、ひとサイクルの区切りという感覚を持つ人も多いだろう。いまは60歳でもまだまだ肉体的にも衰えていない人が相当いるし実際、職場でも現役で重要な役割を果しているのが普通なわけであるが、それでもやはり、60歳=還暦ともなると、本人は様々な感慨を持ち、周りの人たちはお祝いをする、ということはあるだろう。そんなことから、おそらくこれから一年、マスコミ等では、「戦後」を振り返ったり、その検証を行ったりという動きが活発になるだろう。
 ところで、60年前の1945年という年は、日本の労働組合運動にとっても重要な画期となっている。というのは、この年に労働組合法が公布されたからである(施行は翌年)。この労働組合法によって初めて日本の労働者は、労働三権、つまりは団結権(労働組合を結成する権利)、団体交渉権(経営者と賃金その他の労働条件について話し合う権利)、団体行動権(ストライキを行う権利)を持つようになり、ようやく労働組合運動を合法的に行うことが可能となったのである。
 労働組合法の制定は、もちろん国会で行われた。これは日本が戦争に負けて占領軍当局=GHQが出した5大民主化指令の一つに労働改革が含まれていたという背景のなかで実現したことだった。しかし、労働組合法の制定は戦前から日本の労働者が要求していたことでもあるし、GHQがまっさきにそれを指示したことは、戦争をしない、民主的な社会の基礎を作るには、労働組合の役割が重要だということを意味してもいる。

 
戦前日本の労働者はどうしていた?
 
 では、労働組合法制定以前の労働者の状態はどうだったのだろうか? 第二次世界大戦中には、労働組合と名のつくものはせず、労働者の団体としては、国家が指導する産業報国会のみが存在していた。そして、そこでは戦争遂行のための増産が至上目標とされ、滅私奉公が強いられたわけである(もっとも、それだけに逆に労使の矛盾も強まり、徹底した統制体制にもかかわらず戦争中も労働争議自体はしばしば発生したわけであるが)。
 しかし、総力戦体制が構築される以前では、それなりの労働運動の展開は存在していた。1936年に治安維持を理由に禁止される以前にはすでにメーデーも16回を数えていたし、1930年代初頭には労働組合組織率も8%程度にはなっていたのである。
 ただし、それは今日の労働運動とはかなり様相の違うものであったことに注意する必要がある。例えば、現在ではメーデーは家族も含めて参加して楽しめるお祭り的な要素を持つようになっているものの、戦前では、警官と衝突し多くの人が検束されるといった状況で開かれていた。また、日常的にも労働組合の活動が監視・統制の対象となっていた。何か集会を開く場合のみならず、日常的な機関会議のレベルでも、警官が臨席して「不穏」と見なせば解散させるといったことすら行われていたのである。さらには、経営者側には、団交に応じなければならない義務は存在せず、逃げ回ることも可能であり、それでも労働組合側が団交を求めれば警官が出動して介入し弾圧する、といったこともしばしばであった。付言すれば、当局の抑圧的な姿勢は、政治的に急進的な立場をとる組合に対してのみならず、いわゆる穏健な傾向の組合に対しても見られたのである。
 こうしたなかで、奇妙な戦術で争議が闘われるケースもあった。一例をあげれば、1930年代には、「煙突男」を登場させた争議がしばしば発生している。これは、労働者が工場の高い煙突に登り、要求貫徹まで降りない、というものである。経営者側が労働組合を認めず、交渉を行うルールが確立していなかったため、労働者側も命がけでアピールし、経営者を交渉につかせるほかなかったため、こうしたことが起きたのである。ちなみに、最初の煙突争議では、天皇のお召し列車が近くを通るので労働者が赤旗を上から振るのはまずいということで、警察もあわて工場主に対して収拾するよう指導した結果、労働者側が有利な条件を勝ち取った。
 この煙突男はまだしもユニークな戦術と見なすべきかも知れないし、実際に見物人が多数集まり、おでん屋の屋台も近くで営業したといった、ある意味ではのんびりしたエピソードも残っている。しかし、正規のルートでの労使交渉が認められない場合、労働者たちがより過激な戦術に訴えざるを得なかったこともある。例えば、工場寄宿舎での篭城や、あるいは工場設備の打ちこわしなどであり、当然、経営者や警察と激しく衝突し、弾圧を招いた。そして、このことは、一般市民が労働組合全体を「アカ」と見なすような傾向を生み出し、ますます、着実に運動を進める労働組合が勢力を拡大することを困難にした。
 かくして、戦前における労働者の賃金・労働条件の改善はあまり進まなかった。これは労働者個々人あるいはその家族の生活を苦しくしただけではなかった。労働者の生活が安定せず、彼らの声を議会に届け政策に反映させるような状況が生まれなかったなかで、国内政治自体も安定しない、ということにもつながったのである。
ところで、「国民経済」の諸要素のうちで、もっとも大きな比重を占めるのは家計である。国内の労働者の購買力がないなかでは、経済もうまく回転しないことになる。実際に、第一次大戦後の日本は、長期の経済不況が続き、それをなんとかするために労働者の賃金をさらに抑えてダンピング輸出を行う、という悪循環に陥っていた。景気が上向くのは1930年代半ば頃からであるが、これは軍需生産が拡大していったことに伴うものであった。
 このように見ると、戦後、なぜ労働改革が重視されたかがよく理解できる。平和で人権が守られ、その構成員が安心して暮らすことのできる社会を作り出す上で、正常な労使関係、労働者の生活向上をめざす労働組合活動の自由は、不可欠な要素なのである 。

 
戦後日本の経済的繁栄への寄与
 
 以上を踏まえて、1945年以後の状況を考えて見よう。戦後もすでに60年になるわけであるが、経済的には、戦後復興期、成長への離陸の時期、高度成長期、中成長の維持、IT化・グローバリゼーション以後、と分けられよう。
 この間、戦後復興期には労働組合の組織が急速に伸びた。と同時に、かなり激しい労働運動も展開されたし、逆に当局にストップをかけられることもあった。経済的には、物資の窮乏、インフレがあったし、政治的にも混乱していたから当然でもある。
 しかし、経済的には戦前の生産水準を上回るようになり、政治的にも自民党・社会党を中心とする「55年体制」が確立した、1950年代半ばになると労働運動にも変化が生まれることとなる。春段階で賃金などの労働条件について労使が話し合い決定する、いわゆる「春闘」が始まったのである。そして、1960年代に入ると、官公労働者も含め大多数の単産が春闘に参加するようになり、春闘は拡大、定着していった。
 春闘を通じて労働者の賃金が伸びた時期は1960年代から1970年代前半の高度成長期である。経済成長したから賃金も上がった、という説明で終ってしまいそうであるが、実はそう単純ではない。前述のように「国民経済」のもっとも大きな要素は家計であり、勤労者の収入が増えなければ、経済も拡大しない。そう考えると、労働運動によって、賃金上昇を勝ち取り、可処分所得を拡大していったからこそ、日本経済は着実に伸びていったと見ることが可能である。
 これとともに、高度成長期に入り、交渉を通じた労使関係がうまく機能するようになったこと自体が良い影響を与えていたことも無視するわけにいかない。労働組合の活動は、"簡単に首を切られることはない、働けば食っていけるし賃金も上がっていく"という安心感を生み出し、労働者の勤労意欲をかきたて真面目に仕事に取り組む状態を作り出した。それが、さらには製品やサービスの質の向上につながった。周知のとおり、高度成長期以降、海外では"メイドインジャパン"は評価され、国際競争力も上昇していたのである。この点は、戦前とかなり対照的である。戦前も日本製品は、それなりに海外に輸出されていた。しかし前述のように戦前は労働運動が認められず、経営者も労働者の賃金を抑えて安い製品を作ればよい、という態度をとった。そこから当時、日本製と言えば「粗悪品」の代名詞とされるような状況にあったのである。
 続く70年代半ばから80年代にかけては、石油危機や欧米諸国との貿易摩擦、NIESの追い上げなどのなかでも日本経済はそれなりのパフォーマンスを示した、いわば中成長期にあたる。そこでも労働組合の貢献は少なくない。産業構造の転換のなかで合理化を迫られた産業においても、労使は話し合い、知恵を出し合ってきた。また、雇用対策や社会保障制度などで政府や財界に働きかけ、話し合い、社会的な安心の維持にも労働組合は尽力してきたのである。
 このように見てくると、焼け跡から出発して物質的な豊かさを享受するようになった戦後日本の歩みにおいて、労働組合の果してきた役割は大きいものがあると言えるだろう。

 
新たな時代に対応して社会的な役割を果すために
 
 1990年代、日本経済は大きな転換を迎えた。国際競争の激化、労働市場も含む規制緩和、コスト削減圧力の増大、非正規雇用の増加等々の変化は労働組合の活動にも大きな影響を与えている。
そんななかで、「すでに日本の労働者の賃金・労働条件は十分改善された」とか「新たなルールで経済が動いているのだから労働組合はもう古い」、「春闘も必要ない」といった声も、聞こえている。
 しかし、現在の日本で、労働者の生活の質がほんとうに満足すべきところまで来ているかは大いに疑問である。しかも、中小と大手、パートと正規雇用における格差は拡大している。ここでは詳しく述べる余裕がないがこれは政府の発表する統計を少々ながめただけでわかる事実である。また、女性労働者が能力を発揮できる職場となっているか、老後も憂いなく暮らせる社会のシステムが出来ているか等々、課題は多い。逆に言えば、そうした課題を解決できず、労働者が安心して働ける状況が生まれていないことが、90年代以降、日本経済がなかなか停滞から抜け出せない一因となっているとも言える。
 そのように見るならば、労働組合の社会的役割は、現在、むしろ重要性を増しているとも考えられる。同時に、社会的役割を果すために、労働組合の側は、これまで弱かった非正規雇用の労働者への働きかけや多様な働き方を保障するルール作りなど、新たな状況に対応した活動を進める必要があると言えるだろう。
 
2005.3.23
 

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